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MORNING TALK

朝の心

人はなぜ勉強するのか

2005.09.21
朝の心

おはようございます。今日は、吉田松陰という人物のことを書いた「人はなぜ勉強するのか」(岩橋文吉著、モラロジー研究所出版)の本の中から紹介します。
 吉田松陰は、今から170年ほど前の1830年8月4日に今の山口県萩の郊外松本村に生まれ、1859年10月27日江戸伝馬町の獄において幕府により処刑されました。その一生は29年2ヶ月あまりの短いものでしたが、松陰と松陰が開いた松下村塾に学んだ青年たちが、あの明治維新に与えた影響は計り知れないほど大きく、その青年たちはいずれも歴史に名を残す人物になっています。彼らは、その時代の課題を自らの課題として、懸命に「自分探し」の勉強をしてそれぞれ志を立て、その志に自らの生涯を賭けて自分の役割を発見し、大きな貢献をしたわけです。
 松陰は、人はどんな人でも真実な人生を生きるために学問・勉学をすべきであるとの主張に立っていましたが、その主張は、天が各人すべてに授けた「天性」を確信し、これを尊重することに基づいていました。人は自らを尊しとして自重し、心に備えられた道徳にかなうように生活しなければならないと彼は考えるのです。
松陰は、この天性を純金にたとえ、人は誰でもその内面に天性の純金を含んだ鉱石のようだと説いています。人がまことの人として生きるためには、わが身を精錬して私欲の不純物を取り除き、天性の純金の輝きを表さなければならないとし、その精錬の道が人生の学としての学問であり、真骨頂を探求して自覚する学問なのだと松陰は考えていました。
各人が天から授かっている純金の量は人ごとに異なっています。この違いは天が決めた生まれつきのもので、現代風に言えば遺伝因子によるのであるから、もともと本人の責任ではありません。したがって、純金の量が多い少ないは関係ありません。大切なことはいずれも全く同じ純金であるということなのです。たとえ純金の量が少なく生まれついた人であっても、その純度においてはなんら遜色のない純金なのですから、尊さはなんら変わらないということを松陰は強調しています。その人が真骨頂を発揮して、純金の輝きを表せばその人は生きがいのある幸せな人生を送ることになるでしょう。逆に不純物が混じったままで量ばかり多くしたとしても、その人の人生は偽りですからやがて破綻(はたん)をきたすことになります。その純度を保障する道が松陰のいう学問なのです。人物の大小や個性、能力の違いなどは天が授けた制約ですから、その天与の制約を受け入れ、その制約のもとで精一杯を尽くして純金になろうと努力するのです。つまり、自分に授かった天性、天分をかけがいのない尊い持ち味としてこれを自覚し、その持ち味を卓越した状態にまで高め磨き上げてその輝きを発揮することこそ、純金になるということでしょう。

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