朝の心
なぜ語学を勉強するのか
- 2017.09.14
- 朝の心
先月末、東京にある専修大学の理事長 日高義弘先生が来校されました。日高先生は日向学院の出身で、刑法学者としても第一線で活躍されています。約20年ぶりに訪れた母校を懐かしんでくださり、短い時間でしたが思い出話を中心にお話をすることができました。
今日は皆さんに、日高先生が日向学院時代の思い出を記された講義録(『学問と人生―日高義弘学長講演録Ⅱ-』)を、かいつまんで紹介したいと思います。
当時、外国人の神父さんが多かった日向学院では、ミサがラテン語で行われたり、英語、イタリア語などの外国語を耳にしたりする機会が多かったそうです。そんな環境にありながら、日高少年は語学を勉強する意味をあまり見出せませんでした。
ある日の掃除の時間のこと、教室に掲げられた十字架に少し悪戯をしてしまった日髙少年は、イタリア人の神父さんにこっぴどく叱られます。最初は日本語でしたが、そのうちイタリア語になり、さっぱり意味がわかりません。それでも「本当に怒っているんだな」ということと、「信仰を持っている人の信仰は尊重しなければいけないのだ」ということを、身を持って学んだそうです。
そして彼は、人は、自分の考えや思いを心から伝えようとする時は一番得意な語学で勝負するものなのだと気づきます。同時に、語学は伝えたいことを伝える道具であり、新しいものを発見するための道具でもある。道具である以上、研かなければならない。道具はよく切れた方がいいに決まっているからだ、ということを悟ります。彼が語学を本格的に勉強するようになったのは、それからです。その後、大学に入り学者の道を歩みはじめるわけですが、語学に関してあまり苦労しませんでした。それは、日向学院時代の暖かい教育があってこそ目覚めることができたのだ、と当時をしのばれています。
国語を含め、語学の勉強が好きな人もいれば嫌いな人もいるでしょう。あるいは言葉だけでは伝えられないことや、それ以外の伝え方が良いこともあります。それでも私たち人間が、自分の考えや気持ちを伝えやすい手段、また逆に相手の考えや気持ちを理解しやすい手段は、やはり言葉です。グローバル時代と言われている今、母国語をはじめ外国語の学ぶ意義を、改めて考えてみましょう。