朝の心
葛藤
- 2018.01.27
- 朝の心
教会の礎を築いた一人に、聖パウロという聖人がいます。彼は当初、必死になってキリスト教徒を迫害し続けていました。神のためにそれが正しいと思っていたからです。ところが、キリスト教徒を捕まえるためにダマスコという町に向かっていたある日、突如、天からの光に周囲を照らされ、彼は地に倒れます。そして声を聞きます。「なぜ、私を迫害するのか」と。彼が迫害しているイエスの声でした。その後、彼は心を入れ替え、洗礼を受け、キリスト教徒となります。そして、どんな困難や迫害にあってもイエスの教えを世界に向けて宣べ伝え続け、最後はイエスのために命を捧げる生涯を送ります。
ところで、葛藤という言葉を知っていますか?「心の中に相反する欲求が存在し、どれを選択するか迷う」という意味です。例えば「山にも行きたいし、海にも行きたい」とか「成績を落としたくないが、勉強はしたくない」など選択肢のうちいずれか一つを選ばなければならず、迷いが生じ、悩むことです。
葛藤という言葉は「葛」と「藤」という字で構成され、葛も藤も、蔓のある植物です。蔓がまとわりつくとなかなか解けず、厄介なさまからきています。つまり人間は、悩めば悩むほどどこでどう絡まっているのかわからなくなり、自分の心をグルグル巻きにして苦しむことになるのです(『心の荷物をおろす108の知恵』参照)。
しかしこうした葛藤があるからこそ、人は極端な方向には走りません。そればかりか葛藤に悩み、考えた結果から知恵が生まれ、新しい道が開けることもたくさんあります。
さて、自分が正しいと信念を持ってキリスト教徒を迫害していたことが、実は大きな間違いであることに気付いた時の聖パウロは、どんな気持ちだったでしょうか。聖書には「三日間、目も見えず、食べも飲みもしなかった」と書かれていることから、大きな葛藤で苦しんだに違いありません。やがてその葛藤から抜け出した彼は、人生の終わりに「私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(Ⅱテモテ4・7~8)と胸をはって宣言しています。
私たちの生活は葛藤の連続です。大切なのは、葛藤が生じた時に自分を縛っているのは何か、時間をかけてゆっくり自分を見つめ、一つひとつ解放をしていくことではないでしょうか。その作業を丁寧に行うことができれば、本来、自分はいったい「何を目指しているのか」、「何を大切にしなければならないのか」が見えてくることでしょう。