朝の心
交響曲第9番から100年
- 2018.06.19
- 朝の心
年の暮れの風物詩になっている、ベートベンの交響曲第9番のお話です。この曲が日本で初めて演奏されてから、この6月で100年目を迎えました。第一次世界大戦で日本と戦い、捕虜となって徳島県の収容所に連れて来られたドイツ兵たちが、演奏し歌ったのでした。「演奏は大成功でした......何とも言えない安らぎ、なぐさめが流れ出てくるのです」と、捕虜の一人が家族への手紙に書いています。収容所生活が長引く中で、当時の日本は、捕虜のドイツ兵に、ピクニックに行くことや、地元民との交流を許しました。またドイツ語の新聞や本の発行や、音楽楽団を組むことなど捕虜の自主性を重んじました。そんな雰囲気の中で第九が演奏されたのです。当時の収容所所長さんの「日本が文明国だと示すため、捕虜を人道的に扱う国際法を守らねばならない」という考えに基づくものでした(『朝日新聞6月1日』参照)。
さて、最近よく取り上げられているニュースの中に、アメリカンフットボールの悪質な反則行為の話題があります。もともとスポーツは、宗教的、儀式的で神聖なものとして考えられてきました。例えば古代ギリシャのオリンピックは神々へ捧げる祝祭の競技であり、そこには一定の様式、規則がありました。日本においても、スポーツは単なる競技というよりも「道」としての考え方が強く、競技を通して人としての在り方、生き方を究めるものと位置づけられてきました。
しかし残念ながら最近では、アメフトに限らず、さまざまなところでその姿勢が問われているようです。合理的、組織的になるあまり、勝利だけを求めるようになった結果なのかもしれません。
ルールや規則というのは、人類のあらゆる経験から生み出された知恵だと思います。それを守るかどうかは、人道に反しない限りにおいて個人の成熟、社会の成熟に繋がっていて、すなわち人間性、社会性に関わってくるのではないでしょうか。そもそもルールや規則は、弱い立場の人や困っている誰かを守るためのものでなければならないと私は思います。徳島県の収容所での話は、負けて捕虜となった人の尊厳を守った一つの良き例で、誇るべき歴史です。勝つことや強いことだけが、決して正しいのではありません。負けた側、弱い立場の人、苦しんでいる人々にきちんと配慮できた時、ルールを守る生き方がさらに尊いものになることでしょう。
写真:中体連前に気合いをいれる中学野球部