朝の心
『いのち』の言葉
- 2018.07.03
- 朝の心
私たちは学校という環境にいると、いろいろな人の話を聞く機会に恵まれています。先生方の授業中の話から、講師として呼ばれてきた方の話もそうです。自分も人前で話す仕事をしていて思うのですが、言葉に力のある人とあまり力を感じない人がいたりするものです。同じ言葉を使っても、かたや右耳から左耳へ空しく通り過ぎていくこともあれば、心にずしんと響くこともあります。この差は何なのでしょうか。それはもしかしたら、その言葉に「いのち」があるかないかかもしれません。「いのち」のある言葉の背後には具体的な「できごと」があるものです。
あるTさんという牧師先生が結婚をして、ご夫婦にかわいいお嬢さんが生まれたました。しかしその子は3歳のとき、難病にかかって世を去ってしまいます。独り子を失う悲しみはそれはそれは大きかったことでしょう。このときこのご夫婦にとって最大の慰めとなったのは、ある先輩牧師のひとことでした。
「きみ、つらかったろうね。」
涙を目に浮かべながら、ポツリと語ったその先輩自身が、ご自分の3人のお子さんを病気で亡くし、更につらい試練を経験されてきたといいます。だから、余分なことは何も加えないそのひとことが、Tさんにとってこの上ない慰めになったのだそうです。それから30年、お子さんを亡くされたT牧師の語る言葉は、深い悲しみの中にある人を慰める不思議な力をもって語られ、多くの人を生かしてきたということです。
私たちのする喜びの経験も、悲しみの経験も、もし私たちの語ることばとつながるなら、この言葉は「いのち」を持ちます。そして、それを受け取る人に「いのち」を与えます。みなさんがする一つ一つの経験は、いつか他の人に「いのち」を与えるものになるのです。
わたしはときどき、しんどい時に、自分の部屋の壁にかかっている十字架上のイエスを眺めることがあります。するとそこから「きみ、つらかったろうね」というような慰めを感じることがあるのです。
皆さんの語る言葉が、いつも他の友達に「いのち」を与えるものでありますように。