朝の心
「なぜ」を問う前に
- 2018.09.12
- 朝の心
いよいよ中学の体育祭が今度の日曜日に行われます。当初開催を予定していた日は、残念ながら雨で流れてしまいましたね。高校の体育大会も突然の雨で途中で中止となってしまいました。
それにしても、今年の夏は全国的にたくさんの天災に見舞われた夏だったと言えます。7月の西日本豪雨から始まり、記録的な猛暑と数多くの台風の発生。そして台風21号の関西直撃と北海道胆振(いぶり)東部地震。なぜこうもいろいろなことが起こるのか。誰ともなく問いかけたくもなります。
7年前、東日本大震災が起こった後、日本に住む7歳の少女がテレビ上で当時のローマ法王ベネディクト16世にある質問をしました。「私はとても怖い思いをしています。大丈夫だと思っていた家がとても揺れ、同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、教皇様、教えてください。」
その問いに対して、法王は次のように答えます。「私も『他の人々は平安のうちに生きているのに、なぜあなた方が苦しまなければならないのか』という同じ問いを持っています。」「我々は答えを持っていませんが、罪なきキリストがあなた方と同じく苦しまれたということは知っています。」
教皇様は「なぜ」と問うこと以上に、人類の為に命を捧げたイエス様に目を向けます。
同じイエス様は、「善いサマリア人のたとえ話」をされます。
"一人の旅人が強盗に襲われ、半殺しになって道端に転がっている。そこを通りかかった祭司もレビ人も旅人を避けて行ってしまった。しかし、たまたま通りかかったサマリア人はすぐに駆け寄り、傷の手当てをし、休めるところへと運んだ。"
このとき、サマリア人は「なぜこの旅人はけがをして苦しんでいるのか」などと聞くことはしません。「なぜ」を問うより先に、「何とかしなければ」という心の動きに従ったのでした。
原因を突き止めることは、次の災いを起こさないためにとても大切です。しかし、それで満足しても、目の前に苦しむ人を残すのならば、幸せはやってきません。身軽に動き出すことも大切なのではないでしょうか。
まずは身近なところから始めましょう。校内でゴミが落ちているのを見たら、「なぜこんなところにあるんだろう」と疑問を抱く前に、ちょっと拾ってゴミ箱まで運びましょう。困っていそうな友達を見かけたら、「なぜ」と考える前に、ちょっと声を掛けてみましょう。この小さな私たちの動きが、「なぜ」に苦しんでいる人々の光となり希望となるはずです。
ヴィニャーリ作「善きサマリア人」(フィレンツェ、サンマルコ美術館蔵)