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MORNING TALK

朝の心

聖人になれ

2018.09.26
朝の心

最近、新聞を読んでいて、校則、つまり学校の規則についての記事が目に留まりました。校則はどの学校にもありますが、よく考えると何のための校則だったのか理解が難しいものがあったのではないかという問いかけでした。

私は今ここで、校則の是非を問うつもりはありません。理想を言えば、細かな規則などなくても生徒全員が安全・安心で楽しく有意義な学校生活を送り、お互いに切磋琢磨しながら人間として高め合うことができればいいのでしょう。

明治時代の初め、札幌農学校の創設に尽力したクラーク博士の言葉を知っている人も多いでしょう。彼は初代教頭として、細かな学則を否定して、次のように言ったそうです。「私がこの学校に臨む規則は、Be gentleman! ただこの一言に尽きる。」つまり、「Be gentleman! 紳士であれ!」これだけを規則にしたのです。そしてこの規則を破るものに対しては「ただ退学あるのみ」という厳しい姿勢で臨みました。クラーク博士は学生が細々とした規則の奴隷となることを嫌ったのでした。

平安時代、仏教の天台宗の開祖とされている最澄は、一切の人々は仏になれる可能性を持っているとし、細々とした戒律を不要として、人々にはただ「ほとけの子であれ!」とだけ戒めたと言います。
(cf.『仏教とっておきの話366』ひろさちや著、1995、新潮文庫、p.41-42)

ドン・ボスコもあまり細かい規則を好まない人であったと言われます。「罪を犯さなければ、何をしてもよい」とも言っていますが、彼が子どもたちに何度も繰り返し言っていたのは「君たちは聖人になりなさい」という言葉でした。

ここに挙げたどの人々も、「規則を守れば別にいいんだろ」とか、「テストで先生に気に入られるようなことを書いておけば点数にもなるし」という表面上いい子にしている人を認めません。「紳士であれ」「仏の子であれ」「聖人であれ」と、人間の中身がより高みを目指すものであることを求めたのです。人に強制されたり、人の顔色をうかがうのではなく、自分からより良い者、より清い者、より深い者、より真実な者、より温かい者であるように努力することを求めたのです。

皆さんは、規則の奴隷になっていませんか?それとも、己に克って、より高い理想を目指す人間として生きていますか?

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