MENU

閉じる

閉じる

  • ホーム
  • 日向学院について
  • 朝の心
  • 愛とは、特定の誰かに向けられ、人々の今の現状に注がれるもの
MORNING TALK

朝の心

愛とは、特定の誰かに向けられ、人々の今の現状に注がれるもの

2018.09.28
朝の心

 14歳でプロデビューした将棋士の「ひふみん」こと加藤一二三さんは、24歳の時にいろいろと思うところがあり、カトリックで洗礼を受けます。以来、西洋文学に興味を持ち始め、ドストエフスキーやゲーテを読むようになったそうです。その一二三さんが、先日の朝日新聞でヴィクトル・ユーゴの本『レ・ミゼラブル』を紹介していました(2018年6月2日)。数年前にミュージカル映画にもなったので知っている人も多いでしょう。この物語は、主人公ジャン・ヴァルジャンが、貧しい生活のためたった一つのパンを盗んでしまう場面から始まります。長い間牢獄に入れられたのち、ヴァルジャンはやっとのことで脱走に成功するものの、その後、世話になった司教から銀の皿を盗んだという罪で警察に捕まります。しかしヴァルジャンは、司教の「その皿は私が彼に与えたものだ」という言葉に救われ、司教の寛容さに感動し、良い人間になろうと決意するのです。それからは生き方を180度変え、人のため、社会のために生涯を送ります。

人は誰でも正しい生き方をしたい、正しい側にいたい、と思うものです。ただ、正しいのか間違いなのか、単純には振り分けられない時があります。あらゆることは複雑に絡み合っているので、「これは正しい、これは間違い」と割り切れないことがたくさんあるからです。『レ・ミゼラルブル』の物語にはジャベールという警官が登場しますが、国の法に正しく従う生き方をする人物として、ジャン・ヴァルジャンと対照的に描かれています。

「正義という言葉を使う時、私たちには「愛」という言葉も忘れてはいけないと思います。正義と愛とは必ずしもイコールではありません。正義は、顔の見えない人々の集合に向けられ、人々のあるべき姿に照準を合わせるのに対して、愛とは、特定の誰かに向けられ、人々の今の現状に注がれるものです」(『折々の言葉1083』参照)。

大切なことは、人は誰しも正しいことをしたい、正しいことを話したいと思っているのだという前提で、相手と接することです。その上で、時には間違うこともあるし知らないこともある。たとえ故意に悪いことをしたり言ったりしているように見えても、それなりの原因やきっかけがあったはずだ、という思いやりを持って関わっていくことが大切ではないかと思います。kokoro7.jpg

閉じる