朝の心
成長の年、実り年とするために
- 2019.01.21
- 朝の心
イエスが最初の弟子たちを選ぶときの様子を、聖書は次のように書いています。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(マルコ1・16~20)
この記述を読む限りでは、イエスが「わたしについて来なさい」と言っただけで、弟子たちは直ちに従ったことになります。しかし突如目の前に現れた見ず知らずの人に、大の大人が仕事も家庭も簡単に捨てて従うとは普通考えられません。では、なぜ彼らはすぐイエスに従ったのでしょうか。聖書には理由が書かれていませんが、彼らは救い主の到来を待ち焦がれており、憧れと期待、希望を心に強く抱いていたからこそすぐに従えたのではないかと私は想像します。言いかえれば、その「時」が来た瞬間、チャンスを決して逃さないために、常日頃から準備をしていたのではないかと思うのです。それゆえに、イエスの呼びかけにすぐに応えられたのでしょう。
「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉があります(司馬遷『史記』)。「よいこと悪いことはより合わせた縄のようなものだ」ということです。悲しく辛いことがあっても、それを原動力に努力し続ければいつか大きな喜びや幸福を得ることができるが、よいことに浮かれてばかりいたら、思いがけない失敗をしてしまうこともある、という意味です。(『心が雄大になる中国の名言』参照)。
イエスの弟子が生きていた時代、裕福な生活ができたのは一握りの人々で、ほとんどの人は貧しい暮らしを余儀なくされていました。しかし彼らは、苦しい日常であっても希望の光が現れる時がきっと来る、チャンスを掴める時が訪れる、という確かな期待と希望を抱き、そのための準備として日々を精一杯過ごしていたに違いありません。幸せなことも不幸なことも変化し続けます。大切なことは目先の幸不幸に動じることなく、今やるべき一つひとつを、大切に希望をもって行うことではないでしょうか。
新しい年は始まったばかりです。自分にとって成長の一年、実りのある一年にしていくために、一日一日、そして一つひとつに心を込めて取り組んでいきましょう。