朝の心
エリサベト訪問
- 2019.06.01
- 朝の心
ある街に仲の良い二人の兄弟がいました。兄は家族と一緒に住み、弟は少し離れた所に一人で暮していました。ある年、街は大変な飢饉に見舞われ、あまりお米が取れませんでした。そこで弟は考えました。「この飢饉では、兄さんのところは困っているだろう。家族がいるのだから。よし、今晩そっと兄さんの所に行って倉にお米を運んでおこう」。ところが兄の方も、「弟は一人ぼっちで心細いことだろう。せめて食糧くらいはきちんとなければ。今夜こっそりお米を弟の倉に運んでやろう」と、同じことをしました。翌朝二人は驚きました。確かにお米を持ち出したのにまったく減っていません。そうして何度か同じことをくり返したある晩、二人は道の真ん中でお米を肩に担いだまま、ばったり会ったのです(『朝のこころⅠ』参照)。
私たちはどうしても自分のことをまず考えてしまう自己中心的な存在です。それは人間の弱さであり、性でもあります。しかし一歩下がって、自分の周りを少し広く見わたしてみると、自分より大変で苦しんでいる人や、助けを必要としている人があちこちにいることがわかります。そして、自分がいかに自分のことしか考えない存在だったかと恥ずかしくなります。
聖母マリアは、天使から救い主の母となることを告げられました。そのとき同時に、子どもに恵まれないまま年を重ねた親類のエリザベトにも子どもができ、もう6ヶ月目に入っていることを知ります。マリアは「急いで山里に向かい」、ユダの町に住むエリザベトのもとへ行きました。距離にしておよそ150キロ離れていたと言われ、大半が丘陵地帯だったため、登り下りの多い道のりだったはずです。ましてやマリア自身、胎内に子どもを宿しており、体を大切にしなければなりません。にもかかわらず、すでに6ヶ月目に入り、かつ高齢であるエリザベトのことを考えると、自分よりもさらに助けが必要な彼女の力になりたいという思いがあふれたのでしょう。聖書の「急いで山里に向かう」という表現がその気持ちをよく表していると思います(ルカ2・39~45参照)。
5月はカトリック教会では聖母マリアを特別に思い出す聖母月です。「互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のため自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13~14)というイエスの言葉を少しでも実行できるよう、聖母マリアの取り次ぎを願いたいものです。