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MORNING TALK

朝の心

おもて富士、うら富士?

2019.06.14
朝の心

先週、ある会議に出席するために、中田神父と一緒に山梨県の山中湖畔に行ってきました。富士山がとてもきれいに見えるところです。富士山は静岡県と山梨県とにまたがっていますので、私が山梨県から見える富士山を表裏の「うら富士だ」と言うと、出身の山梨県にとても誇りを持つ中田神父は、「いや、お・も・て・です!」と主張しました。奈良県出身の私としては、まぁ、どちらでもいいんですけどね。

 ある2枚の絵があります。そこには気の強そうなカエルと気の弱そうなカエルがいます。1枚目の絵に描かれているのは、気の強そうなカエルが気の弱そうなカエルを池に落とそうとする場面です。この1枚だけを見ると、気の強そうなカエルが気の弱そうなカエルに意地悪をしているように見えます。ところが2枚目を見ると、この場面がもっと大きな枠組みで描かれていることに気付きます。木から落ちてくるリンゴが気の弱そうなカエルに当たりそうになるのを救うために、気の強そうなカエルは、池に突き落とそうとしていたのです(『プチ哲学』参照)。

 このように枠組みを変えて見てみると、同じ場面でも、あるいは同じ行動でも意味がずいぶん変わって見えることが分かります。時には全く反対の意味を持つこともあります。大切なのは、私たちはある一定の視点、またはある一定の枠組みでしか、物事を見ていなかったり考えていなかったりすることが多いということに気付くことだと思います。

 

経営の神様と言われた松下幸之助は、次のように言っています。

「いくつになってもわからないものが人生というものである。

 わからない人生を、わかったようなつもりで歩むほど危険なことはない。」

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