朝の心
常に自分を疑えるか
- 2020.02.13
- 朝の心
ある親子が交通事故に遭いました。残念ながら父親は亡くなり、男の子が大怪我で病院に運ばれました。幸いそこには素晴らしいキャリアを持つ有名なベテラン外科医がいました。外科医は手術室に運ばれた子どもを見た瞬間、驚きます。その子は我が子だったからです。
この話を聞いて、親子で事故に遭い父親が亡くなったのに「外科医はなぜ、我が子だと驚いたのか」と思った人がいるでしょうか。そう思った人には、外科医=男性という固定観念があったのだと思います。「外科医」は母親だったのです。
実験科学の世界では、仮説どおりの結果にならない場合、ほとんどの研究者が自分の仮説に間違いはなく、実験の方法に問題があるせいで良いデータが出ないのだと思うそうです。そして、条件を少しずつ変えながら実験を繰り返します。ところが、実は仮説そのものが間違っていることが多いそうです。つまり研究者に必要なのは、天性やひらめきよりもむしろ自分を疑えるかどうかであり、さらに失望に対する忍耐や潔いあきらめも必要であると、生物学者の福岡伸一氏は言っています。
一方で、時として仮説どおり、あるいは期待以上の結果が実験で得られることもあります。その場合に研究者に求められるのは、実験の方法に間違いはなかったか、見せかけだけの結果ではないか、と自ら疑うことで、時には希望に対する忍耐やあきらめも肝心だとも言っています(朝日新聞2019/7/11参照)。
「馬の耳に念仏」という諺を知っていますか。「人の意見や忠告に耳を貸そうとせず、少しも効果がないことのたとえ」です。この諺では、諭す側と諭される側という前提を崩すことなく意見や忠告を聞かない相手について嘆いていますが、耳を貸さないのは逆に、諭そうとしている自分かもしれない、と疑ってみることも大切ではないでしょうか。言い換えれば、諭す前にまず頑固な己の心をほどき、相手の心を理解して受け入れることが大切であると思います(「折々のことば1389」参照)。
私たちの日常においても、些細なトラブルが起きたり何かに行き詰まったりすることがあります。そんな時、当たり前と思っている関係や、間違いないと思い込んでいる前提を疑ってみましょう。再確認することで、新しい展開が見えてくるかもしれません。