朝の心
一人ひとりは神秘的な存在
- 2020.09.18
- 朝の心
イエスが故郷に戻り、人々の前で話をされた時、多くの人々はイエスの言葉に驚きますが、同時につまずきもします。その時の様子が、聖書で次のように述べられています。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた(マルコ6・1~6)。
このエピソードをもとに、人を受け入れるには三つの観点が大切だと思いました。
一つ目は、どんな人にも人権があるという観点です。日本人であろうと外国人であろうと、健常者であろうと障がいをもつ人であろうと、あるいはどんな性別でいようとも、人には基本的人権があるという観点で受け入れることです。
二つ目は、人には歴史があるという観点です。なぜなら人間は、一人ひとりがそれぞれにバックグラウンドを持つ具体的な存在だからです。その意味では「マリアの息子ではないか」という人々の問いかけは当然の発言でした。私たちは皆、母親から生まれ、家族をはじめ多くの人々と関わってきたうえで現在の自分があるのだということを忘れてはなりません。
三つ目は、人間は一人ひとりが神秘的な存在であるという観点です。ここが実は、最も大切であると同時に最も難しいポイントだと思います。イエスの故郷の人々も、この観点でつまずきました。聖パウロは言います。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリント3・16〜17)と。自分と気が合う合わないという見方を超越して、一人ひとりが神の息吹で生かされた存在だという観点で互いをリスペクトし、受け入れていくことが大切なのではないでしょうか。
この三つの観点を踏まえて、普段から人と関わるときに自分はどのような観点で相手を受け入れているかを振り返り、考えてみましょう。