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MORNING TALK

朝の心

重荷を担いあう

2021.09.19
朝の心

先日、小川に落ちた時にどうやら傷口からバイ菌が入ったようで、足がえらく腫れてしまいました。今は薬を飲んでいますが、少し前はやっぱり痛くて走ることもできませんでした。治療は早くすべきですね。

さて、病気や怪我、災難というのは、それが大きいものであれ小さいものであれ、自分にとっては「重荷」となります。何で私がこんな目に遭わなければならないのかと運命を呪いたくなることがあったりします。カトリックの作家の曽野綾子さんは、著書の中で次のように書いています。

「(重荷を負うと)必ず誰もがそれに打ち勝つ力を与えられるだけでなく、非常に多くの場合、その人は幸運で健康であった時より『いい人』になっているのである。(中略)その人は神に語りかけられたというほかはない。」

曽野さん曰く、神は思いもつかない方法でその人を人間として成長させる、その手段が時に「重荷」なのだそうだ。「重荷」の意味を理解するとき、人は人として深く生きることができる。だから、重荷だと思うことから逃げることは、自分の財産を捨てることにもなるのです。

それでも、あまりにも重荷を持つのが辛い場合、これを誰かに一緒に担ってもらうことも大切だと曽野さんは言います。

ある時、曽野さんがローマの有名な教会に行った時、たまたまそこに大型バスが数台止まっていました。見ているとバスの中から病気の人や体の不自由な人が出てきて、ご家族やシスター方の介助で車椅子に乗せてもらって、教会の中に入っていきました。教会の中では、車椅子の人も健康なご家族やシスター方も、一緒にロザリオの祈りを唱えていました。曽野さんはその時「この社会というものが、病む人と健全な人と両方がいて初めて普通なのだ」と感じたそうです。そしてその両者が互いに心を通わせられるのは、形こそ違え、誰もが同じように「重荷」を持っているからだと理解したそうです。

私たちは大なり小なり、ひとりで抱えるには辛い重荷を持っています。互いの重荷に関心を持って、ときには寄り添い、肩を貸す優しさを持ちたいものです。

「互いに重荷を担い合いなさい。」

使徒パウロの言葉です。今日も互いに重荷を担いあうことの幸せを感じることができますように。

(参照:曽野綾子『心に迫るパウロの言葉』, p.134-140)

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