朝の心
チマッティ神父様の思い
- 2023.09.21
- 朝の心
文化祭・体育大会が終わって、時間割通りの毎日を過ごしているこの頃です。皆さん、切り替えはできていますか?
さて、来月6日は何の日か知っていますか?学校は「創立記念日」としてお休みにしています。なぜ創立記念日なのか。それは、初代校長チマッティ神父様の命日に当たるからです。
これから数回の私の「朝の心」では、このチマッティ神父様についてのこと、特に日本に来て宮崎の地に根付いたあたりをお話していきます。まず、第1回目の今日はチマッティ神父様が日本に着いた時のことです。
チマッティ神父様が祖国イタリアを離れ、遠くの国で宣教師として一生を過ごしたいと目上の総会長に宛てて手紙を書いたのは、なんと彼が46歳の時でした。皆さんの保護者と同じくらいの歳でしょうか。そのときの手紙にはこのように書いてあります。
「私には......どこか遠くの辺地で、清い空気を吸いながら、力つきるまで働きまくることが必要です。......私にとって苦労が多ければ多いほど、喜ばしいと思っています。」
当時、バルサリチェ学院の校長・院長としてみんなから慕われ愛されていたチマッティ神父は、その充実した居心地のいい環境を敢えて捨てて、より多くの苦労が予想されていても、神様が自分を必要としている新しい場所へ赴こうとしていました。
当時のサレジオ会の総会長は、最初の宣教師派遣の50周年を記念して、1925年にチマッティ神父を団長とした8名のサレジオ会員を、アジアの辺境の地である日本に派遣することを決めたのでした。
フルダ号に乗ってジェノバを出発した彼らは、40日間の長い船旅を経て、1926年2月8日、門司港へと到着します。一行はまず長崎に行き、そこから新しい任地である宮崎に向かったのでした。
信徒の人々の歓迎の中、宮崎駅に着いた時の心境を、チマッティ神父様は簡潔に次のように書いています。「神に感謝!全く『祖国』にやってきたかのようです。」
チマッティ神父様は、最も居心地が良かったであろうイタリアを離れ、敢えて言葉の習得など苦労が多い所へと自分の身を置いたのでした。もちろん、神様の教えを多くの人、特に青少年に全身全霊を込めて知らせたいという熱意が彼を動かしたことは確かです。でもその苦労を彼が引き受けたからこそ、日向学院をはじめとする今の日本でのサレジオ会の学校ができたのでした。「パンだねになる」ということは、その苦労を承知で未知なるものにチャレンジする勇気を持つということなのかもしれません。
皆さんも、失敗を恐れずチャレンジする「パンだね」であってほしいと思います。